アカデミック・キャピタリズムについて
2011年2月12日土曜日
雪降る軽井沢で「アカデミック・キャピタリズムを超えて」を読んだ。基礎科学と応用科学の神話の章に、軽い衝撃を覚える。1946年にバネバー・ブッシュがフランクリン・ローズヴェルトに提言した有名な「科学ー果てしなきフロンティア」には、「実践的なあるいは実際の応用を念頭に置いた基礎研究というものは必ず腐敗する」という彼の科学への思想が語られている。実は、現在、日本において、日常的に使われている基礎研究とか、応用研究という区別はこの時から生まれたのだった。先日『譲れない「・」科学技術か科学・技術か、専門家バトル』(http://www.asahi.com/science/update/1214/TKY201012140441.html)という記事を読んで、何にこだわっているんだろうと不思議に思っていたのだが、「・」なしの科学技術という言葉も、プラクティカルな精神を社会形成の鍵としていた米国で生まれたものだった。そういう意味では、明治時代、主にヨーロッパへ留学し、学術や科学導入を始めた日本がまだ純粋科学(pure science)にこだわるのにようやく納得した次第である。とにかく、アメリカの事情を中心にサイエンスの実情を捉えるのは危うい事に気が付いた。アメリカもまだミリタリーサイエンスの成功モデルもしくはコンプレックスからの脱却や、プロパテント政策の整備やその矛盾の中で、新しい科学政策を進めているのである。MITやコーネル大学も最初は州立大学だったとか、大陸横断鉄道で財を成したリランド・スタンフォードが1889年に夭折した息子を追悼して建てられた新しい大学だったとか、ちょっとした事実を知らないが故に、私自身の過剰評価や偏見が多いことにも反省した次第である。大学経営と科学技術政策の背景に興味のある方に是非読んで頂きたい良書である。
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