今まで周囲の厚意でいろいろ仕事は頂いていたのですが、自分の仕事と呼べるものはほとんどありません。ましてやそれが誰かの糧になるということを肌身で感じるほど世に貢献したという実感もないのが本音です。子供から職業を聞かれても簡単に説明は出来ませんし、彼らが大人になる頃、自分の仕事が目に見える形で残っているかどうかというとその自信もありません。ただし、ある種の使命感というものは感じていまして、それが言葉になれば良いのですが、音楽のようなもので、言葉でいくら説明されてもその価値が伝わりません。その上、これからつくる予定の音楽の価値を事業計画に基づいて説明せよ、と言われても、音楽家にはその能力はありませんし、その時点で天から啓示は途絶えてしまうでしょう。
音楽はたった12音の組み合わせでも無限に表現が出来る上に、おおよそ、その人が創ったことということが隠せません。その人の一部が宿っているかのようにです。不思議なことに音楽家は、絶望的な状況に巡り合わせるとその状況を悲しいかな、その状況を一身に受け止めて、音楽があふれ出るのです。美しいけれども、限りなく透明なものとして、誕生し、ひとからは永遠の名曲と呼ばれたりします。メルロ=ポンティが死の直前まで書き残した原稿を集めた「目に見えるもの 見えないもの」という本の中にこういう一節があります。「<存在>とは、われわれがそれを経験しようとすれば、われわれに創作することを要求するものなのである。」と。
自分が何故存在するかを考えたとき、われわれは何かを創る他ないのです。
今日たまたまTwitterを見ていたら、国領二郎さんが「スティーブジョブスへの最大の敬意は、彼のつくったビジネスモデルを打ち壊すことである」とおっしゃっていたとのコメントがあったのですが、まさに我が意を得たりです。かつて、スティーブジョブスが困難にあった時代、大衆は彼の敵でした。彼が訴える言葉は、壮大であればあるほど愚かに聞こえ、負け犬のようでした。今、自分が、溺れようとしている愚かな犬にムチを与え、そのくせスティーブジョブスの自伝を読んで感動している投資家でないか、我が身を振り返る必要があります。イノベーションへの投資が難しいのは、お前らは愚かだ、と言う負け犬に、個人の視点を超えて、投資をする度量を必要とするからです。世界を再構築するという仕事はそういう人間関係を見つけられた時に成立するのでしょう。
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